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ギリシャ語とラテン語の南無

南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか南無大師遍照金剛とか南無三宝とかいうときの「南無」はサンスクリット語の नमस् namas [ナマス]かその変化形の発音をうつしたことばで、意味としては「みなみ」も「ない」も関係ない。

変化形っていったけど、格変化とか人称変化じゃなくて、連声[れんじょう]つまり発音のつながりからくる変化のことで、つぎにくる単語の最初の音によって नमः nama [ナマハ]になったり नमो namo [ナモー]になったりする。

真言にもよくでてくることばで、不動明王の真言「ノーマク サンマンダー…」のノーマクは nama がなまったものだし、アミダ如来の真言「ノーボー アラタンノー…」のノーボーは namo がなまったものだ。

namas は नम् √nam (かがむ、おじぎをする、敬礼する、屈する、したがう)っていう動詞に動作名詞の語尾 अस् -as がついたもので、「あたまをさげること、敬礼、あいさつ、崇拝」って意味の中性名詞だけど、不変化詞として与格(~に)といっしょにつかわれる。仏教用語としては「帰命[きみょう]」って訳されたりする。

たとえば南無三宝(三宝〔=仏法僧〕に帰依します)は नमो रत्नत्रयाय namo ratnatrayāya [ナモー ラトナットラヤーヤ]で、このばあい namas は有声音 r- のまえだから namo になってて、ratnatrayāya は रत्नत्रय ratnatraya [ラトナットラヤ]の単数与格だ。

namas はヒンドゥー教でももちろんつかわれる。たとえば नमो विष्णवे namo viṣṇave [ナモー ヴィシュナヴェー]、विष्णवे नमः viṣṇave nama [ヴィシュナヴェー ナマハ]、नमो विष्णवे नमः namo viṣṇave nama [ナモー ヴィシュナヴェー ナマハ]。viṣṇave は विष्णु viṣṇu [ヴィシュヌ]の与格で、こういうふうに namas の位置はきまってるわけじゃないし、かさねてつかわれることもある。

namas に2人称単数与格の人称代名詞 ते te [テー](あなたに)をつけると नमस्ते namas te [ナマス テー]になって、いまのインドの地方語、ヒンディー語とかネパール語とかであいさつのことばとしてつかわれてる(ただしこれはヒンドゥー教徒のあいさつで、イスラーム教徒だとべつのことばになるらしい)。地方語のあいさつのことばとしてはこの語順で固定されてるけど、サンスクリット語としては ते नमः te nama [テー ナマハ]っていう語順もあるし、与格の名まえといっしょにこのいいまわしがつかわれることもある。

この namas にあたることばがギリシャ語とラテン語の碑文にでてくる。ミトラ教の碑文なんだけど、たとえば、

Νάμα θεῷ Μίθρᾳ, νάμα πατράσι Λιβειανῷ καὶ Θεοδώρῳ, νάμα καὶ Μαρείῳ πετίτορι, νάμα πᾶσι τοῖς συνδεξίοις παρὰ τῷ θεῷ.

っていうふうに νάμα [náma ナマ]っていうのがつかわれてる。これにつづくのはサンスクリット語のばあいとおんなじで与格のことばだ。ひとつめは神に対して、そのあとの3つは人間に対してつかわれてる。

ラテン語の碑文だと、たとえば、

Nama leonibus novis et multis annis.

っていうのがある。nama のあとには複数与格の leonibus があって leo (獅子)っていうのは参入者の位のひとつだ。そのあとの novis et multis annis も複数与格だけど、これは nama にかかってるわけじゃない。

ただし νάμα と nama はサンスクリット語からはいったんじゃなくて、namas に対応する古代ペルシャ語の単語がもとになってるらしい。古代ペルシャ語はサンスクリット語とちかい関係にあることばで、どっちもインド・ヨーロッパ語族のなかのインド・イラン語派に属してる。

2012.04.27 kakikomi

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